Stitch Data
しばらく前にブラザーの業務用刺繍機を買った。PR1055Xという機種だ。
針が10本並んでいる。各々が異なる色の糸を担当し、コンピュータ制御で高速に針を打ち込んでいく。ロゴひとつ仕上げるのに数千から数万針。昔も今も、刺繍は贅沢品だ。手でやれば何日もかかる作業を、機械は数十分でやる。果てしない物理の力だ。
だが機械は設計図がなければ動かない。
刺繍の設計図はデジタイジングと呼ばれる。画像やデザインを、針の座標データに変換する作業だ。サテンステッチ、フィルステッチ、ランニングステッチ。ステッチの種類と方向と密度と順序を、素材の伸縮や引っ張り補正を考慮しながら一つずつ指定していく。このデータがDSTやPESといったフォーマットで出力され、ミシンに渡る。
そのためのソフトウェアがある。業界標準のWilcomは約3,500ドルから、Tajimaのプロ向けは8,500ドル。DAWより遥かに高い。
自動デジタイジング機能を謳うソフトもあるが、プロの評価は厳しい。単純なロゴなら使える。だが小さな文字、複雑なグラデーション、素材ごとの引っ張り補正が必要な場面では、手動のデジタイジングに遠く及ばない。画像認識で輪郭を取って、ルールベースでステッチを割り当てているだけだ。AIと呼べるものではまだない。
このあたり、AIの波はまだ来ていないようだ。
テキスト生成も画像生成も音楽生成も、この数年で地図が塗り替わった。だが刺繍のデジタイジングは、素材の物性という物理制約と、針という物理出力の間に挟まれている。画面の中で完結しない。そこにビジネスチャンスがあるのかもしれないし、物理が絡むからこそ最後まで残る職人の領域なのかもしれない。
たぶん、両方だ。いつか自分の手で解きたい課題のひとつではある。