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Still WAV

SC-88Proを買った日のことを覚えている。

1990年代後半、DTMに入り込んだきっかけがこの音源だった。GM音源、GS音源という言葉をここで覚えた。プログラムチェンジで音色が変わり、コントロールチェンジでエクスプレッションをつける。MIDIの仕様はシンプルで、理解すれば理解しただけ音が応えてくれた。

当時使っていたのはVoyetraのMIDI Orchestrator Plusというシーケンサだ。ピアノロールとスコアエディタが一体になっていて、楽譜が読めなくても、ピアノロールで打ち込めば楽譜になった。Sound Blasterに付属していたのだと思う。高機能ではなかったが、初学者には十分すぎた。

やがて外部音源はソフトウェア音源に置き換わった。SC-88Proの音色を聴く機会は減り、GS音源という言葉を使う場面もなくなった。シーケンサもCubaseとLogicを中心に淘汰が進んだ。Ableton LiveやFL Studioが新しい層を取り込み、VoyetraやOpcode Visionのような古参は消えていった。

そしてVSTプラグインの時代が来た。

音作りの自由度は爆発的に広がった。だがその裏側は混沌だ。iLok、Native Access、Steinberg Activation Manager。販売サイトごと、メーカーごとにライセンス管理の仕組みが違う。あるプラグインはUSBドングルを要求し、別のプラグインはクラウド認証を求める。マシンを買い替えるたびに、認証の移行作業が待っている。音楽を作る前に、環境を作る作業で疲弊する。

そしてなにより厳しいのは、再生環境の共有ができないことだ。

ミュージシャンがそれぞれのDAWで、それぞれのプラグインで、それぞれの音を作り込む。そのこだわりが音楽の個性になっている。それはわかる。だがプロジェクトファイルを他人に渡しても、同じプラグインが入っていなければ音が出ない。結局、共有できるのはWAVに書き出したステムだけだ。DAWprojectという新しいフォーマットも生まれたが、LogicもAbletonもPro Toolsも対応していない。2026年になっても、音楽の共通言語はWAVファイルだ。

MIDIの時代、GM音源さえあれば誰のパソコンでも同じ曲が鳴った。貧相な音だったけれど、共通言語があった。いまの音は圧倒的に良い。だが共通言語を失った。

いずれクラウド上でプラグインが動き、環境差異がなくなる日が来るのかもしれない。だがそのためには業界の再編が必要だろう。各社が自社のエコシステムで囲い込みをしている限り、WAVファイルが共通言語であり続ける。

SC-88Proはいま、iOSアプリになっている。なっていた。iOSのバージョンアップで、いまはもう動かない。当時のMIDIファイルも、あの音色も、ポケットの中から消えた。共通言語は、二度失われた。